青年信長、桶狭間に義元を討つ。

織田信長 二十六歳

永祿三年(1560年)五月、駿河の今川義元が、ついに動いた。二万五千の大軍を擁し、上洛を開始したのである。

じわじわと尾張に迫る今川軍に、織田家は騒然としていた。まさに、危急存亡の時であった。五月十九日深夜、信長は突如出陣の用意を家臣に命じた。

「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・」
と、自ら『敦盛』を三度舞うと、主従六騎で駆け出したのであった。さらに、熱田神宮で二千の軍勢を整えると、急ぎ進軍を始めたのである。

「狙うは義元が首ぞ!他の者には目もくれるな!」

この時、このまま何事もなく京をめざせるものと安心しきっていた義元は、桶狭間またの名を田楽狭間と呼ばれる場所で休息をとっていた。

そして、午後二時ごろ、空模様があやしくなり、にわかに豪雨となる。信長は、その豪雨をついて本陣を突き、疾風のごとく義元の首級をあげたのだった。

青年信長が、天下にその名を鳴り響かせた一戦である。時に、信長二十六歳であった。

織田信長(1534~1582)
父信秀の死後、十八歳で家督を継ぐ。桶狭間の戦いで今川を破り、さらに尾張の統一、美濃攻略を成して入京。天下統一への足がかりをつける。