平清盛 二十九歳
「神輿(みこし)なぞ、僧侶の飾りにすぎぬ」
清盛の顔には、動揺の色は少しもなかった。清盛、時に二十九歳、その当時誰もが侵すことのできなかった宗教権威に、今、真向から対決しようとしていたのである。
当時、比叡山の法師たちは、自らの要求を押しつけるために、強訴という方法を用いていた。祇園社の神官たちとともに神輿を先頭に、朝廷や都の実力者の邸に押し掛けてゆくのである。
この神輿こそ、『絶対なるもの』であった。権力者すらもそれを遙拝しなければならなかったのだ。まして、矢など射かけようものなら、たちどころに神罰があたるとされていた。
清盛は、僧衆を鎮圧すると称して、路を進むこの神輿の行列の前に立ち塞がった。
「神輿が見えぬか!この罰あたりが」
清盛の耳には、そんな罵倒する声も入らない。
そして、あろうことか矢をつがえ、神輿の真ん中にそれを射こんだのである。迷信や因襲にとらわれない合理主義者、清盛。時代は、その時、彼のような人間を求めていた。
平清盛(1118~1181)
刑部卿平忠盛の子として生まれる。平氏の棟梁となり、軍事力、経済力と姻戚関係によって政界に進出。最初の武家政権である平氏政権を確立する。