太田道灌 二十四歳
康正二年(1456年)、太田家の家督を相続した道灌は、主扇谷上杉氏の信頼厚く、江戸築城という重大な使命を与えられる。
「江戸は、敵足利成氏からの守りとなる要の地。なんとしても、守るに固く、討って出るに出やすい城となして、殿を安堵させねば・・・」
道灌は、築城に全霊を傾けた。
城は一年あまりで完成を見た。その当時の城の規模や構造は、今は知るよしもないが、史料によれば、城は三つの廓に囲まれ、高さは約二十五メートル。さらに回りに深い堀をめぐらしていたと言う。
三つの廓が、道灌の築城の工夫であった。三つの廓の間には、深い溝を設け、たとえ一の廓が落とされても、二の廓から弓を射ることができる。廓ばかりではない、その上道灌は、機敏に行動のできる足軽隊をも編成していた。
「いざ合戦となれば、これらの者を城から討って出させ、敵を殲滅させるのじゃ」
近代戦に通じる戦法を、早くも整えていたのである。この時道灌、まだ二十四歳の青年であった。
太田道灌(1432~1486)
扇谷上杉氏の家老の子として、相模国に生まれる。江戸築城後はこれに拠り、主家のために奮戦。歌の道にも通じ、文武両道に秀でた武将としても有名。