近松門左衛門 六十七歳
元禄文化華やかなりし頃、その繁栄を陰から観察していた男がいる。浄瑠璃作家、近松である。
「世が、浮かれている時にも、どこかに必ず哀しさが漂う。それが人の性(さが)というもんじゃ。そこを書けば、必ずうける」
そう信じていた近松は、大阪曾根崎の心中事件を題材に『曾根崎心中』を書き、大当たりをとる。
そして、それから十数年後、今度は世話物の傑作『心中天網島』を書き上げるのである。
「近松はん、こんどの道行は、恐ろしいくらいですな。おまけに、死んでゆく二人があわれで、あわれで。前の『曾根崎』とは同じ心中でも、えらい違いですな。これ、うけますかな」
「いや、いや、必ずうける。今、お客の見たがっているものがこれじゃ」
『心中天網島』は、『曾根崎心中』とは違うリアリズムにあふれていた。そして、近松の言うとおり、これも大当たりをとる。近松、六十七歳の時の作品である。
心中はその頃、きびしい身分制度にしばられた庶民の間でひとつの流行となった。幕府は後にこの心中物の上演を禁じる。
近松門左衛門(1653~1724)
越前国に福井藩士の子として生まれる。古浄瑠璃の台本を執筆。後に竹本義太夫と新しい浄瑠璃をはじめる。世話浄瑠璃を創始、大当たりをとる。