秀吉の饗応を見合わせる。

徳川家康 四十七歳

天正十八年(1590年)関白秀吉は、小田原の北条氏征伐のため、関東に下向した。その時、家康の領地にある三枚橋城(沼津城)に滞留することとなった。

それを聞いた伊井直政、本多忠勝、榊原康正らは、家康に「三枚橋においては、関白饗応の宴を張らねばならぬでしょう」と進言した。しかし、家康は饗応はすべきかすべきでないか考えていると言う。

「こちらがあまりにも気をきかしすぎると、墓穴を掘ることになるかもしれぬ。秀吉殿は、なかなか警戒心の強いお人じゃ」
家康は、秀吉をまさに見抜いていたのである。

「あのお人に対しては、何事も気のきかぬように振る舞った方がよいであろう。油断のならぬ奴と思わせないようにするが、最善の策と言える」

結局家康は、三枚橋城では饗応の宴を開かなかった。慎重に慎重を重ね事を進めた家康ならではの逸話である。時に、家康四十七歳であった。

徳川家康(1543~1616)
三河国岡崎の生まれ。織田信長、豊臣秀吉を継いで天下統一を成す。江戸幕府の初代将軍となり、幕藩体制三百年の基礎を築く。