太田蜀山人 二十一歳
太田蜀山人が、狂歌の道へと入ったのは、二十一歳の青年時代であった。
蜀山人は、もともと武士であった。それも、下級武士の子であった。ゆえに、武士の貧しさはよく知りつくしていたし、庶民の生活にも通じていた。事実、下っ端ながら役人としての仕事も持っていた。さらに、蜀山人はたいへん勉強家でもあった。勉学をし、武士としてよい役に登用されることをも考えていたのだ。
それらのさまざまな知識が混ぜ合わさったところに、蜀山人の狂歌は生まれる。武士としての面目もかなぐり捨てて、ウイットとユーモアに富んだ数々の名作をものにする。
『世の中は 色と酒とが敵(かたき)なり どふぞ敵にめぐりあいたい』
『山吹の はながみばかり金入れに みのひとつだになきぞ悲しき』
『世の中は いつも月夜に米のめし さてまた申し金のほしさよ』
「なーに、人間、考えていることはいつも同じさ」と言う蜀山人の声が聞こえてきそうな歌である。
太田蜀山人(1749~1823)
江戸牛込で、武士の子として生まれる。十五歳の時、内山賀邸の門に学ぶ。狂歌の名手として名を馳せる。幕府の役人としても勤務。