ベルリンの壁崩壊と言えば、この車。
東ドイツの国民車とも言える車。愛称は”トラビ”。1958年に国営企業であるVEBザクセンリンク社により作られた。1964年にはエンジンの性能を上げ、ボディデザインを変更している。この1964年モデルが、一般にトラバントとして知られている車である。その後大きなモデルチェンジはなされず、東西ドイツ統一後の1991年まで四半世紀にも渡り製造され続けた。
愛嬌のあるデザインだが、性能は昔のまま。
トラバントは、正面から見ると、カーブのついたラジエターグリルにより微笑んだ顔に見え、とても愛嬌がある。しかし、こうした個性的なデザインを持つ一方、その性能は60年代のままで旧態依然としていた。
2ストローク空冷直列2気筒エンジンで排気量は600CC。大人4人が乗車しなんとか時速100キロは出せたようだが、高速で走り続けるのは難しいという代物だった。また、変速機もサスペンションも旧式で、燃料計も付けられていなかった。当時の西ドイツでは1985年から自動車の排ガス規制が始まっていたが、当然それに適合する車でもなかった。
さらに、ボディがボール紙でできているという噂も横行した。実はトラバントのボディは鉄製ではなく、軽量化のためFRPで製造されている。FRPといえばヨットなどにも使われている繊維強化プラスチックのことだ。普通はガラス繊維などを使ってプラスチックを強化するが、トラバントの場合は、なんと綿の繊維を使って作られていた。また、実際に製造コスト削減のため紙パルプと羊毛を使っていたという話もある。このあたりがボール紙伝説を産んだのだろう。
東ドイツの庶民が買える車は、これだけだった。
このような車であったが、統一前の東ドイツでは、一般庶民の購入できるマイカーは実質的にトラバントのみであった。しかし、当時は需要に見合った生産が行える体制ではなかったため、注文しても10年から12年待ちという状態が当たり前であった。東ドイツの人々にとってはこのトラバントでも入手できるだけでラッキーだったのである。
ベルリンの壁が崩壊した1989年、東ドイツの人々は、トラバントに乗って国境を超えた。この車を見た西側の人々は驚愕した。60年代そのままの車が大挙して入ってきたのである。その頃の西側の車と言えば、オートマでカーステレオ、エアコン付きが当たり前、そろそろカーナビも付けようかという時代である。そこに骨董品のような車が入ってきたのだからまさにカルチャーショックであった。
東西ドイツ統一の象徴的な車だった。
トラバントの製造が始まった頃は、この車も大衆車としては普通のスペックであり、ボディをFRPにして軽量化を図るということではかなり先進的とも言えた。四半世紀という時間は残酷である。そんな車を時代遅れにしてしまったのである。しかしトラバントは、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一の象徴的車となった。歴史の転換点にあって、東西ドイツの庶民生活の差を物語る歴史の証言者、いや証言車ともなったのである。
そんなわけで、このトラバントにはファンが多い。現在のベルリンでも走っている姿を見かけることがある。もちろんそのままでは排ガス規制のため市街地を走ることはできない。歴史文化財として特別に許可を得て走らせているのだ。
観光資源として、歴史遺産として。
トラバントは、今やドイツの観光資源として大きな役割を担っている。ベルリンの「DDR博物館」には、トラバントの実車展示があり、旧国境検問所近くの「トラビワールド」という施設に行き予約すれば、誰でもトラバントを運転することができるのである。
世の中に歴史的な価値のある車は多く存在する。だが、その価値の特異性という面でトラバントの右に出る車はいないだろう。もし、ベルリンの壁崩壊という歴史上の事件が起こらなかったら、その時東ドイツの民衆がこの車に乗って西側に入ってこなかったら、トラバントは単なる古い車で終わっていたはずである。