
その車名に込められた思いとは。
派手なフロントグリルに、寄り目のヘッドライト。そして、ボンネットの先端にはロケットのようなマスコットが。1930年代後半から40年代のアメリカ車を思わせる重厚感あふれる車だ。ドイツの自動車メーカーオペルの小型車オリンピアである。
オペルオリンピアは1935年に初代が製造、販売されているが、上の車は1950年に登場した車である。しかもセダンではなく、ステーションワゴンだ。1950年から1953年まで作られていたオリンピアには、こうした商用車タイプも存在する。戦後すぐの社会ではやはり商売や仕事に使える車が大いに求められたのである。

この車はステーションワゴンであり商用車タイプなのだが、派手なフロントマスクは健在である。背が高めでフェンダーが強調されているスタイルは、50年代の車としては少し古いイメージだ。
1935年から1950年というと、その途中には第二次世界大戦がある。オペルは、基本的な作りは変えず、マイナーチェンジしながら戦前、戦後と同じ車を作り続けた。オペルには、この車オリンピアに対して自信と愛着があったのだろう。
近代的なスタイルの車だった、オリンピア。
1935年に作られた最初のオリンピアは、ドイツの車の中では初めてのモノコックボディであった。つまり一体成型で軽く、車内が広い近代的な車というのがウリであった。デザインも当時流行の流線型スタイルで、ヘッドライトもボディと一体化されており、いわゆるクラシックスタイルが多かった1930年代では新しさを感じさせる車でもあった。
オペルはこの車の製造のため新しい工場も建設する。それほどこの車に懸けていたのである。登場して2年後の1937年には早くもマイナーチェンジが行われ、エンジンが1300ccから1500ccにアップ。車体が若干大きくなり、デザインもさらにスマートになった。
戦前のオペルオリンピアは、1935年から1940年にかけて16万8000台以上が製造されたとのことであるので、当時としてはヒット車と言えるだろう。ドイツと同盟を結んでいた日本にも輸入され、まだ発展途上でもあった日本の自動車メーカーにも影響を与え、オリンピアのような試作車が多く製造されたようである。

1935年に作られたオリンピア。モノコックで流線型のボディで、ライトもボディと一体化している。なお、この頃のオリンピアは、フロントグリルの形が1950年以降のものとは大きく異なる。
【Snowdog, Public domain, via Wikimedia Commons】

フェリーに乗って川を渡るオリンピアとオーナーの家族。ドライブを楽しむ家族の様子が写っている。オリンピアは、庶民向け小型車であったことがよくわかる。1939年撮影のスナップである。
【Fortepan, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
オリンピアという名の由来。
さて、この車の名前であるが、「オリンピア」とはどこから来ているのだろうか。想像はすぐにつくだろうが、オリンピックである。オリンピアが登場した翌年1936年の8月、ベルリンでオリンピックが開催される。オリンピアはそのオリンピックにちなんだネーミングなのである。
当時のドイツにとってオリンピックの開催は悲願であったと言えるかもしれない。最初、ベルリンでのオリンピック開催は1916年に予定されていたが、第一次世界大戦によって大会は中止となる。しかもドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、経済的な危機に陥ったのである。
そんなドイツも1920年代の中盤には経済が安定し、国際社会にも復帰して、1936年のオリンピック開催が決定する。1933年からドイツを治めていたのはアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権であった。ナチスは、オリンピックをプロパガンダのためのイベントとして大いに活用する。アーリア民族の優秀性を世界に知らしめるための絶好の機会と捉えたのである。
そのため、競技場や選手村の建設をはじめ、道路や空港、宿泊施設の整備を国を挙げて行った。また、競技の様子を放送で中継したり、大会のドキュメンタリー映画の制作を行うなど、宣伝活動も徹底的に行ったのである。
ナチスの思惑はどうあれ、ドイツの国民にとってやはりオリンピックの開催は喜ぶべき事柄であったに違いない。敗戦国で貧しかったドイツがここまで復興し、世界に向けてドイツの優秀性を訴えることができるのだから。ちょうど1964年の東京オリンピックの時の日本人と同じである。

1936年にベルリンで撮影された写真。オリンピックの大きな垂れ幕や「ゲストを歓迎します」と書かれた垂れ幕が見られる。道路の上には五輪マークとハーケンクロイツの旗がなびいている。オリンピックで大いに盛り上がっているようだ。
【N.N., CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】
人々の熱狂を車名にしたオペル。
ドイツ国民が大いに盛り上がった大会なのであるから、自慢の新車を売りたいオペルが、それを放っておくわけはない。最新の技術を注ぎ込んだ車にオリンピアという名をつけたというわけである。
このベルリンオリンピックは、競技場の建設や開催式の派手な演出、中継など、現在のオリンピックに通じる部分が多い大会と言える。さらに、一般庶民がそんな演出を喜び、それを企業が宣伝や販売に活用するという図式もこの時にできあがっており、オペルオリンピアもそのひとつなのである。
オリンピアが登場した4年後、世の中は第二次世界大戦に突入して、オリンピアの製造はストップするが、戦争が終わって2年後の1947年には早くも製造が再開される。工場は空襲を受けており、この大戦でもドイツは敗戦国となったのだが、戦前と同じオリンピアが生産され人々に届けられたのである。
戦後のオリンピアは、旧型アメ車スタイル。
1950年、マイナーチェンジされたオリンピアが製造、販売される。それが、このページで取り上げている車である。戦前のオリンピアをベースにしているので、フロント部分が大きく変わったとしても、基本的には戦前と同じ車であり、そのため1930年代後半から40年代の古いアメリカ車を思わせるスタイルになっている。
1953年製のオリンピア2ドアサルーンである。2011年に撮影されたものであるが、50年以上前の車とは思えないほど美しく保たれている。
【Fridolin freudenfett (Peter Kuley), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
やはり、戦後数年しか経っていない時点では、新しい車を開発するというのは敗戦国のメーカーであったオペルには難しかったのだろう。でも、名前は相変わらずオリンピアであった。ヒトラーのオリンピックと非難されたベルリンオリンピックにちなんだ名前であったが、それをそのまま残したのである。
オリンピックが、ヒトラーのプロパガンダとして活用されたとしても、ドイツ国民はオリンピック自体に悪いイメージを持ってはいなかったのだろう。それをオペルは理解していた。いやそれ以上に、オリンピックは喜ばしいイベントであり、平和な時代の自動車にふさわしい名前だとオペルは判断したのかもしれない。
そこでオリンピアには、普通のセダンに加えてオープンスタイルのガブリオレやステーションワゴンも用意し、この車を戦後の社会で大いに利用してもらおうとしたのである。そして1953年からは、全く新しいスタイルの戦後型乗用車オリンピアレコルトに引き継がれることとなる。
1951年製のオリンピアの走る様子が見られる動画である。運転するオーナーは、倉庫に40年眠っていたオリンピアをレストアしたと語る。ゆっくりと走るオリンピアが丁寧に撮影されている。
オリンピアの復活。それはやはり・・・。
オリンピアという名は、1960年代に入ると使われなくなるが、1967年に突然、新型のオリンピアがオペルから登場する。オリンピアAである。当時の流行にあわせたファストバックスタイルを採用したスマートな車であった。
なぜまたオリンピアが復活したのか。それは、1972年に西ドイツのミュンヘンで戦後初のオリンピックが開催されることが決定したからである。
やはりオリンピックなのだ。オペルとしても本当にうれしかったのだろう。オリンピアは永遠なり!である。

1953年に登場したオリンピア レコルト。新しいスタイルの戦後型の車だ。これは、当時の宣伝写真のようである。
【JOHN LLOYD from Concrete, Washington, United States, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons】

1969年製のオリンピアAである。1972年ミュンヘンオリンピックの開催を記念して再びオリンピアの登場となった。
【Charles01, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】