マツダ T2000

積載能力たっぷりのマツダT2000。

こうして商売の必要から生まれたオート三輪だが、戦後になると大進化を遂げてしまうのが、日本の自動車界のすごいところである。昭和25年(1950年)の朝鮮戦争による特需で景気がよくなったことに加え、翌年にはオート三輪の排気量やサイズの規制が撤廃される。

これらの理由により、オートバイに荷台を付けただけの車が、より自動車らしく、より大きくなっていった。屋根がつき、ハンドルが円形になり、ドアがつき、内装が充実し、荷台が大型化していったのである。

昭和30年代に走っていたオート三輪は、現在の小型トラックぐらいの大きさが普通だった。特にこのページの最初に掲載したマツダT2000は、日本のオート三輪の最終形とも言われる車だ。

13尺と呼ばれる大型は全長6m、荷台の長さ4mと、現在の2トントラックのロングボディに近い大きさだった。排気量は2000ccで、最高速度も時速100km。オート三輪の中では最も早かった。幌を付ければ荷物もたっぷり積めただろう。それでも三輪である。荷物を満載して走るところを想像すると少し怖くなる。

T2000のサイドビュー
日本通運で使われたT2000
目立つ黄色に日本通運の文字、赤い丸に「通」の字がトレードマークだ。鉄道の駅と顧客との間の配送業務は、この車が担っていた。それにしても大きい。
ダイハツのオート三輪 CM型
ダイハツCM型
オート三輪の大手メーカーと言えばマツダとこのダイハツだった。通称は「バタコ」。バタバタと音をたてながら走るからか。

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戦後日本の道路を縦横無尽に。