モータリゼーションの進展が、サニーを生んだ。
ヨーロッパでは1960年代の初めごろ、新しい庶民向けの車、いわゆる大衆車が次々と生まれていた。戦後15年が過ぎ、モータリゼーションが急速に進展しておりコンパクトで堅牢しかも庶民が購入しやすい車が求められていたのだ。この時期、ドイツではオペルカデットAが、フランスではルノー4が、イギリスではオースチンミニが、そしてイタリアではフィアット500(チンクチェント)が生まれている。
1962年から販売されたオペルの大衆車。見た目がサニーに似ているが、デザインや一部の機構がサニーに影響を与えたと言われている。
【Lothar Spurzem, CC BY-SA 2.0 DE, via Wikimedia Commons】

チンクチェントとも呼ばれるかわいい車。1957年から販売された。アニメのルパン三世の愛車としても有名で、日本でもファンが多い。
【SurfAst, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
東京オリンピックが終わり、全国の主要道路が舗装され、高速道路の整備が進み始めた昭和40年代、日本にもモータリゼーションが押し寄せてきていた。また、高度経済成長の波に乗り、新三種の神器と呼ばれた“3C”、カー・クーラー・カラーテレビがもてはやされたのもこの頃である。つまり、日本でも大衆車を世に出すための下地がこの時整っていたのである。
こうした時代の流れの中で、昭和41年(1966年)にサニーが登場する。新発売にあたってはこれまでになかった車、これからの庶民の車という訴えを行う必要があった。世の中では“3C”がもてはやされていたものの、まだまだ乗用車の購入は敷居が高かったのである。
日産が仕掛けたキャンペーンとは。
そこで日産が打ち出したのは「新発売の車に名前を付けてください」という車名募集キャンペーンだった。当選者にはサニーの新車がプレゼントされた。しかも、日産は車名の募集とともに広告で新しい車の性能や概要を少しずつ公開してゆくという方法をとった。これをティザー(焦らす)広告という。
車の車名募集キャンペーンは、実は日産が最初ではない、昭和36年に登場したトヨタパブリカも新発売に当たって車名を募集した。しかし、車名募集というとサニーのキャンペーンがよく取り上げられる。これは、当時の日産が新聞を始め雑誌やテレビなどさまざまなメディアで大々的に広告を展開したからだろう。
このように派手に広告を展開したこともあって、昭和41年1月末の車名募集の締切までに850万通にも上る応募があり、車名は「サニー」に決定。サニーとは文字通りには「陽当りがよい」とか「陽気な」という意味だが、資料によれば「明るく快活で若々しい新型車のイメージにふさわしい」という理由で選ばれたようである。2月には東京都立体育館で車名の発表が行われ、4月には全国発売される。
昭和41年のダットサンサニー1000のカタログ。最初の見開きページに「サニー!この名は永遠に…史上最大のご応募850万通の賜ものです。」と出てくる。その他にも、この車に対する当時の日産の力の入れようがわかる。貴重な資料である。
この車名募集キャンペーンだが、よく考えると結構タイトなスケジュールだ。1月末に応募を締め切り、2月に車名を発表し4月に発売なので、その間ほぼ3ヶ月。850万通もの応募を確認し、車名を決めるだけでも結構な作業である。また、決まった車名のロゴの作成やポスター、広告、カタログなどの製作、印刷などにも時間がかかると思うのだが・・・。募集の前からすでに名前は決まっていたのだろうか?