スバルのルーツは戦前の航空機メーカー。
富士重工業は、もともと航空機のメーカーであった。大正6年(1917年)に創業した中島飛行機がルーツである。
昭和の戦前から戦中にかけて、日本の軍部は性能のよい航空機の開発を国内航空機メーカーに求め、それに応えて中島飛行機も「隼」や「疾風」、「鍾馗」など、名機と言われる戦闘機を製造した。また、日本初のジェットエンジン搭載機の開発まで行っている。

大正時代の中島飛行機本社を撮影した写真。中島飛行機は、エンジンから機体までを一貫生産する世界有数の航空機メーカーであった。
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中島飛行機半田製作所の工場の様子。飛行機の組み立てが行われている。当時の中日新聞に掲載された写真。
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こんな富士重工業の歴史が、スバル1000の製造にも大きく生かされている。搭載した水平対向エンジンも、もともと航空機でよく使われていたエンジンであった。航空機メーカーならではの発想で、効率的で乗り心地の良い小型車を開発したのである。
「スバリスト」になった元少年たち。
富士重工業の歴史は、この車スバル1000のヒットにも大きく関係している。自動車のファンは、いわゆる乗り物のファンでもあり、飛行機も大好きなのである。
富士重工業が中島飛行機であることを知っている自動車ファンは、「おお、これがあの中島の車か!」とスバル1000を支持することになった。当時の自動車ファンと言えば多くは30代から40代男性であるが、スバル1000が登場した昭和40年代初頭のその年代は、戦中は10代の少年である。
太平洋戦争中、日本の政府は優秀なパイロットを少しでも多く育てるため、20歳未満の少年を募集し訓練するという「少年航空兵」の制度に力を入れた。当時の少年たちは、そんな政策もあって飛行機に憧れたのである。中学校の校舎の壁にも「少年航空兵募集」のポスターが貼ってあったそうで、「いずれはお国のために飛行機に!」と誰もが思っていたのだ。

昭和19年(1944年)公開の東宝映画「加藤隼戦闘隊」のスチル写真。加藤隊長を演じる俳優藤田進と「隼」が写っている。軍国少年たちは、こんな英雄や飛行機に憧れたのだ。
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昭和17年(1942年)発行の普通切手。記念切手ではなく普通切手であることから、当時いかに航空兵への志願が奨励されていたかがわかる。
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そんな元少年たちが大人となり、あの名機「隼」を生み出した中島飛行機が作った小型車に注目しないわけはないのである。しかも、「元中島の技術を結集した高性能車ではないか!」ということで、絶大の信頼を得た。
スバルはすごい、これぞ日本の技術、日本の小型車だというわけである。こうした人々が、信仰にも近いスバル熱を醸成させてゆく。つまり「スバリスト」の誕生である。
