「追いつけ、追い越せ」の波の中で。
トヨタ クラウンが発売された昭和30年(1955年)に、日本の国内総生産(GDP)は戦前を上回り、翌年の経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言。この言葉が流行語にもなった。戦後の高度経済成長のスタートである。日産 セドリックが発売された昭和35年(1960年)は、その高度成長の真っ只中でもあった。
この頃、合言葉のように言われていたのは「追いつけ、追い越せ」である。焼け野原だった日本も10年でここまで経済復興できたのだから、頑張れば欧米も追い越せるぞというわけである。戦争に負け、日本は二等国だなどと自らを揶揄していた日本人も、自信を回復しつつあった時代だったのである。
「追いつけ、追い越せ」は、自動車に関しても同様であった。1950年代の国産車といえば、「それなりの性能はあるが高級で高性能なのはやはり外車だ」というのが人々の認識であった、しかし1960年代になると、「国産車も結構いいじゃないか、外車にも見劣りしないぞ!」となってきていたのである。

「ヒッチコックマガジン」昭和35年(1960年)12月号の裏表紙の広告である。「国際レベルの品質」というキャッチフレーズが泣かせる。もう日産車は外車に追いついているのだと訴えている。
【宝石社, Public domain, via Wikimedia Commons】

昭和39年(1964年)に撮影された写真。場所は神奈川県箱根の十国峠ドライブインである。箱根には、すでに十国自動車道、箱根新道、芦ノ湖スカイラインなど多くの観光用自動車道路が通っていた。休日になると、箱根は、自家用車でレジャーに出かけるいわゆるマイカー族で賑わったのである。
庶民が気軽にマイカーを持てるようになるのは、もう少し先の話になるが、日本のメーカーも外国に負けない車を生み出せるのがわかってきたこんな時代に、日産 セドリックは登場した。だからこそアメリカ車のような個性的なデザインでデビューしたとも言えるだろう。しかも、デザインだけでなく、最新の性能を持ち装備品も充実していた。
そして、この初代セドリックは、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した翌年の昭和40年(1965年)まで製造が続けられる。セドリックは、まさに日本の高度成長が頂点に達していた時期に人々に愛された車なのである。
なお、昭和40年(1965年)に登場する2代目は、フルモデルチェンジし、ヨーロッパ調のスタイルとなる。「追いつけ、追い越せ」の初代がお手本としたのは豊かさの象徴であったアメリカ車であった。しかし、2代目からは落ち着いたスタイルとし、セドリックの名にふさわしいヨーロッパ車のイメージを目指したのである。
セドリック1500の当時のカタログである。美しいスタイルに加え、充実した装備やインテリアを紹介している。「至れりつくせり」とか「ゆきとどいた」といった言葉が使われ、日産の自慢の車だったことがわかる。
