ファミリアが登場した昭和30年代後半とは。
マツダ ファミリアが登場したのは、昭和30年代の終わり頃である。当時は、日本の高度経済成長も頂点を迎えていた時期だ。ファミリアが登場した翌年の昭和39年には東京オリンピックが開催され、庶民の生活も豊かなものとなっていた。
道路事情が格段に良くなってきていたのもこの頃である。オリンピック開催にあわせ日本各地の道路が舗装され、東京の首都高速も整備された。さらに、関西では日本初の高速である名神高速道路の一部も開通していた。
昭和38年(1963年)の名神高速道路開通式を伝えるニュース。「55キロ以下で走ってはまかりならぬという、ドライバーにはこたえられない外国並みのハイウエー」というナレーションが泣かせる。この動画は、現代のニュースショーで「昭和あの日のニュース」として紹介されたものである。
また当時は、一般庶民がまだ気軽に自家用車を持てるわけではなかったが、そんな時代が目の前に迫っているという期待も高まっていた。昭和30年代の初め頃、電化製品のブームがあり、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれたが、この頃になると新・三種の神器がもてはやされていた。それはカラーテレビ、クーラー、カーで、英語の頭文字をとって3Cとも呼ばれていた。
カー、つまり自家用車をわが家でもという気運が高まっていたのである。休日にはマイカーでドライブという夢は、もはや夢ではなく、現実のものとなってきていた。
ライトバンから販売を開始したファミリア。
昭和40年代を迎えると日本のモータリゼーションは急速に進み、昭和41年(1966年)にはダットサン サニー、トヨタ カローラが発売され、販売合戦、宣伝合戦を繰り広げた。この年から家庭の自動車保有台数が飛躍的に伸び、昭和41年はマイカー元年とも呼ばれるようになる。
ファミリアは、マイカー元年の3年前の昭和38年(1963年)にすでに発売されていた。しかし、サニーやカローラほど大ヒットはしていない。なぜだろうか。マツダでは、庶民が自家用車を気軽に購入するのはもう少し先と見ていたようだ。
マツダは、乗用車への本格参入に際し、普通車は時期尚早とし、まずは軽自動車を発売した。昭和35年(1960年)のマツダR360クーペ、続いて昭和37年(1962年)のマツダキャロルである。そして昭和38年(1963年)には、いよいよ普通車であるファミリアを発売するのだが、セダンからではなくライトバンから販売を開始する。

マツダの4人乗りの軽自動車であるキャロル。リアウインドウが垂直に立ち上がる“クリフカット”が個性的で、人気があった。
【Ypy31, Public domain, via Wikimedia Commons】

マツダは、ファミリアを発売するに当たり、まずは商用バンを投入した。普通のセダンはまだだろうと判断したのである。
【160SX, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
マツダは、普通車への参入に際し、ライトバンつまり商用車から始めたのである。一般の庶民に向けて乗用車を売り込む前に、需要の見込める商売用の車からというわけである。まずは安全パイを選んだのだ。
それでも、昭和39年(1964年)には完全な乗用であるファミリアセダンを発売する。ということは、マイカー元年である昭和41年の2年も前に、マツダはファミリー向けの普通乗用車を発売していたことになる。

広島市にあるマツダミュージアムに展示されているファミリアセダンの実車である。大衆向け小型車としては洗練されたスタイリングであるのが印象的だ。
【NAParish, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons】
