モスクヴィッチ 400

戦勝国のソ連側にも事情があった。

一方、AZLKは、戦勝国のメーカーではあるが、戦争で大きな被害を受けていた。乗用車を製造していた工場を戦争のために疎開させたが、その際に多くの製造設備を放棄しなければならなかったのである。ゆえに、オペルの製造設備があったおかげで戦後に自動車製造を再開できたという事情もあった。

また、AZLKは、終戦前の1940年にソ連初の小型車KIM 10の製造を始めていた。その車は、当時の計画によれば「国民の車」として全国の世帯に普及させるはずであった。つまり、ソ連のフォルクスワーゲンといった車になるはずだったのである。

KIM10が並ぶ
KIM 10
モスクワの交通博物館にあるKIM 10。これもまたモスクヴィッチに似ている。1930年代の終わりごろはこんなスタイルの車が流行りだったのである。
DL24, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】

ところがそのKIM 10は、戦争が激化すると製造中止となった。戦後、製造を再開しようとするが、ソ連の国内にはまともな製造設備が残っていない。そこに、オペルカデットの製造設備である。しかも、カデットは、KIM 10に似たデザインの車でもあった。当時は、カデットのようなスタイルが車両デザインのひとつの流行だったからだ。

ゆえに、「工場にオペルの製造設備を設置して車を量産しよう。しかもカデットはKIM 10に似ているではないか。」という話になるのは自然の流れである。AZLKとしては、いち早く製造を再開して多くの家庭にソ連製の小型車を届けたい、街に“モスクワっ子”をたくさん走らせたいと考えたのだろう。

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モスクヴィッチもカデットも名車となった。