日本の自動車普及を目指して。
昭和5年(1930年)、日本の内務省は、排気量500cc未満の自動車の運転には免許が不要で、自動車税も安くなるという省令を定めた。この時期、政府の方も日本に欧米並みに自動車を普及させようとしていたのだろう。
これによりダット自動車は、500cc未満の小型自動車の市場が広がることを見越し、また、政府の意向に合わせ、庶民でも購入できる信頼性の高い小型乗用車の量産を行おうとしたのである。
銀座四丁目の交差点を撮影した写真である。バスと路面電車の他に何台か乗用車の姿も見える。だがこの乗用車も多くはタクシーであろう。当時はまだまだ庶民は、自動車とは無縁であった。
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最初に開発されたのは昭和6年(1931年)のダットサン10型である。小さな長方形のボンネットに丸いヘッドライトが付いた2人乗りで、495ccのエンジンを乗せた小型車であった。
翌年には改良を施した11型を出し、車種もセダンやクーペをはじめロードスターやバンなども選べるようになった。さらにその翌年には、省令の変更に伴い排気量747ccの12型が製造される。その後、13型、14型、15型・・・と、基本的なスタイルはそのままで、マイナーチェンジされた新型車が毎年のように出されることとなる。
なお、昭和8年(1933年)に創業した日産自動車は、ダット自動車から製造工場とダットサンの商標 、製造権を手に入れ、ダットサンの製造を受け継いでいる。昭和9年(1934年)からは、小型乗用車ダットサンは、日産自動車の製造、販売する車となるのである。
イギリスのオースチン7にそっくり。
ここで興味深い逸話がある。ダットサンがイギリスのメーカーであるオースチンが製造する小型車オースチン7にそっくりであったため、オースチン側は特許侵害であると問題視したという話である。
実際、ダットサンはオースチン7を参考にして開発、設計された車であった。しかし、ダットサン側としては、コピー製品を作って儲けようではなく、安価で優れた自動車を自分たちの技術で製造しようというところに意味があったわけで、特許侵害という意識はなかったようだ。結局、オースチン側は訴えず黙認したと伝えられている。
この件があったからか、日産自動車とオースチンは、戦後には提携を結び、日産の戦後初の車としてオースチン車をライセンス生産している。
昭和7年(1932年)に生産された11型。オースチン7と見た目がよく似ており、しかも同じ排気量、同じ寸法の車だった。
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1931年製のオースチン7である。似ていると言えば似ているのだが・・・。
【Lars-Göran Lindgren Sweden, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
