マツダ T2000

マツダT2000
マツダ T2000 昭和37年(1962年)

戦後のオート三輪の最終形。

マツダT2000、いわゆるマツダのオート三輪である。昭和30年代の街では、荷物を運ぶ自動車としてオート三輪が各地で活躍していた。マツダとかダイハツのオート三輪を街ではよく見かけたものであった。

マツダT2000は、昭和37年(1962年)に登場。オート三輪としては大きく、性能も充実した車であった。

上の写真は、日本通運で使われていた幌付きのマツダT2000である。目立つ黄色のボディカラーにマル通マークが懐かしい。昔は国鉄の主要駅にはたいてい日本通運があり、この黄色いオート三輪がたくさん止まっていたものだ。

世界の三輪自動車、そして日本のオート三輪。

これまで世界の多くの国で三輪自動車が生産されてきた。19世紀に製造された世界初の自動車のひとつと言われるベンツ・パテント・モトールヴァーゲンも三輪車である。また、タイのトゥクトゥクとかインドのオート・リクシャなど、今も現役で活躍している三輪自動車も多く存在する。

ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン
ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン
世界初の自動車は三輪車だ。上の写真はベンツの妻が自動車を広めようと長距離ドライブを行った際に使用したモートルヴァーゲン3号車。
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タイのトゥクトゥク
タイのトゥクトゥク
バンコクで見られた三輪タクシーのトゥクトゥク。かつては日本から輸出されたミゼットなどを使っていたようだ。
Fotograf / Photographer: Heinrich Damm (User:Hdamm, Hdamm at de.wikipedia.org), CC BY 2.0, via Wikimedia Commons】

ゆえに、三輪自動車とは世界的に見ればそう珍しい車でもない。しかし、日本のオート三輪は昭和20〜30年代を通して独自の発展を遂げ、他では見られないバリエーションを持つようになった特異な車でもある。

戦後の昭和に大きな発展を遂げたオート三輪だが、そのルーツは戦前の大正時代にまでさかのぼる。大正の初期に大阪で使われていた前が2輪、後が1輪の三輪車が始まりと言われている。しかし、その形では安定しないため次第に前1輪、後2輪になっていったようだ。

そもそもオート三輪とは。

オート三輪という車は自然発生的な車でもある。自動二輪つまりオートバイがあり、オートバイでたくさんの荷物を運ぶためにリヤカー(後ろの車)をつける。

オートバイとリヤカーを一緒にして荷物運び専用の車にしようということでバイクの座席の後ろに大きな荷台をくっつけた三輪車が生まれる。オートバイの三輪車ということで、オート三輪というわけである。

最初の頃のオート三輪はまさにこの形であり、前がバイクで後ろがリヤカーの三輪車であった。戦前は、こうしたオート三輪が多くのメーカーで作られ、販売されていた。商売のための貨物車として活用されていたのである。

T2000を製造したマツダも昭和6年(1931年)からオート三輪の製造を始めている。この時マツダが出したマツダ号DA型はヒットし、翌年には国内のオート三輪の25%のシェアを占めるようになり、海外輸出も果たしている。

マツダ号DA型
マツダ号DA型
昭和6年にマツダが最初に作ったオート三輪。まさにバイクの後ろにリヤカーを付けた三輪トラックである。三菱のマークが見えるが、当時、三菱商事と販売契約を結んでいたためである。
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積載能力たっぷりのマツダT2000。

こうして商売の必要から生まれたオート三輪だが、戦後になると大進化を遂げてしまうのが、日本の自動車界のすごいところである。昭和25年(1950年)の朝鮮戦争による特需で景気がよくなったことに加え、翌年にはオート三輪の排気量やサイズの規制が撤廃される。

これらの理由により、オートバイに荷台を付けただけの車が、より自動車らしく、より大きくなっていった。屋根がつき、ハンドルが円形になり、ドアがつき、内装が充実し、荷台が大型化していったのである。

昭和30年代に走っていたオート三輪は、現在の小型トラックぐらいの大きさが普通だった。特にこのページの最初に掲載したマツダT2000は、日本のオート三輪の最終形とも言われる車だ。

13尺と呼ばれる大型は全長6m、荷台の長さ4mと、現在の2トントラックのロングボディに近い大きさだった。排気量は2000ccで、最高速度も時速100km。オート三輪の中では最も早かった。幌を付ければ荷物もたっぷり積めただろう。それでも三輪である。荷物を満載して走るところを想像すると少し怖くなる。

T2000のサイドビュー
日本通運で使われたT2000
目立つ黄色に日本通運の文字、赤い丸に「通」の字がトレードマークだ。鉄道の駅と顧客との間の配送業務は、この車が担っていた。それにしても大きい。
ダイハツのオート三輪 CM型
ダイハツCM型
オート三輪の大手メーカーと言えばマツダとこのダイハツだった。通称は「バタコ」。バタバタと音をたてながら走るからか。

戦後日本の道路を縦横無尽に。

昭和20年代から30年代にかけて、日本は敗戦から立ち直り、高度経済成長を迎えつつあった。そんな時代の物流の中心である長距離輸送は、やはり鉄道や大型の四輪トラックが担っていたが、近場の運送や商店の配送などは多くがオート三輪だった。

また、消防車やバキュームカーなど公共の仕事にもオート三輪は使われていた。なお、昭和32年(1957年)にはダイハツミゼットが発売され、軽のオート三輪も大ブームになっている。

日本通運のトラックとバキュームカーのマツダT2000
マツダオート三輪のバリエーション
手前がマツダT1500のトラックで日本通運仕様。後ろはマツダT2000のバキュームカーである。昭和30年代にはどこに行っても見かけた。
ダイハツミゼットDK型
ダイハツミゼットDK型
昭和32年(1957年)に登場したバーハンドルタイプのミゼットである。

やはりオート三輪の活躍は、当時の日本の道路事情によるところが大きい。当時は、車の走りやすい広い道路は都会にもあまりなかった。

一般的に道路の舗装率は低く、江戸時代の街道のままの道幅で曲がりくねっており、車のすれ違いも困難であった。ましてや住民の生活道路となると車一台が通れるかどうかという状況で、雨が降れば泥んこ道となった。

そんな道路事情の中では、やはりオート三輪が便利で機動性がよかったのである。三輪ゆえに回転半径が小さい、ということは小回りが効く。また、ぬかるんだ道での走破性が高いというメリットもあった。四輪駆動車よりもよく走ったという話もある。

もちろん、普通のトラックよりも価格が安いという点でもオート三輪であった。何と言っても庶民の味方だったのだ。

富士駅前で見られたマツダのオート三輪
泥んこ道の駅前通りを走り抜ける。他にもバスやセドリック、クラウンなどの車も見られる。昭和32年頃の映像である。

こうして活躍したオート三輪も、昭和40年代に入ると三輪ゆえの不安定さや高速性能などの面から次第に衰退し、四輪の普通トラックが普及してゆくことになる。マツダはオート三輪市場から昭和49年(1974年)に撤退した。昭和37年(1962年)に登場したT2000も、この時製造、販売を終えている。

しかし、林業関係の仕事ではその後もオート三輪はよく使われていた。小回りがきき、悪路に強かったため、狭い林道にぴったりだったのだ。街ではすっかり見かけなくなった後でも、林道では、伐採した木材を積んだオート三輪をよく見かけたものである。

マツダT2000走行動画
農協で使っていたマツダT2000の走る姿が見られる。半世紀以上前の車だがまだまだ元気である。