Bucciali TAV12

革新のテクノロジー&流行のスタイル。
これはまたゴージャスなクラシックカーである。背が低く、長いボンネットに幅広のキャビン、後ろには2つのスペアタイアを付け、パイプのようなバンパーも面白い。これは、1932年に登場したブッチャリ TAV12という車だ。当時の高級車なのであるが、高級車と単純に語ってしまうわけにはいかない個性的で不思議な車でもある。

全長6.36メートル、全高1.48メートル。この全長で、日本人の平均身長より低いのである。運転席に乗り込んだら、前の方はどう見えるのだろう。狭い道で曲がるのは苦労しそうだ。もちろんそんな狭い道で運転するような車ではないのだが。
だいたいブッチャリという名前からして怪しげだ。30年代のクラシックカーの高級車と言えば、ロールスロイスとかメルセデスとかクライスラーということになるのだが、ブッチャリだ。それって何?聞いたことがないというのが普通だろう。
ブッチャリって何?
ブッチャリとは、1922年創業のフランスの自動車メーカーで、ポール アルベール・ブッチャリとアンジェロ アルベール・ブッチャリという兄弟が始めた会社だ。特にポールは、子供の頃から車と飛行機が好きで、21歳で自家用車を持っていたと言う。また、飛行機のパイロットとして曲技飛行で稼いでいたこともあったようだ。
そんな乗り物が大好きなポールが、音楽家であった兄弟のアンジェロを誘って立ち上げた自動車メーカーがブッチャリなのである。1922年創業で、その10年後に大型の高級車ブッチャリ TAV12を世に出したわけであり、このTAV12、何か深いこだわりがありそうな車ではある。
しかし、TAV12について語る前に、まずは、ブッチャリという自動車メーカーについてもう少し見ていこう。
ブッチャリが最初に製造したのはBucという名前の小型のスポーツカーであった。資料がなく詳しいところは不明であるが、スポーツカーとは言うものの実際にはサイクルカーのようなものだったらしい。
サイクルカーとは1910年代から20年代の始めにかけて流行した小型自動車である。一人乗りか二人乗りで、オートバイを4輪あるいは3輪にしたような安価な乗り物だった。
ブッチャリは、このサイクルカーの生産から出発し、次第に普通の自動車の開発、製造、販売を行うようになり、ある程度の成功を収めたようである。自社開発の車でいくつかのレースにも参加し、好成績を収めてもいる。

アメリカのサイクルカーである。エンジンの回転をチェーンで後輪に伝えているのがわかるが、オートバイに近いシンプルな構造の車であった。上の広告は1913年であるので、ブッチャリのサイクルカーはもう少し普通の車に近いものだったのかもしれない。
【Greyhound Cyclecar Company, Public domain, via Wikimedia Commons】

1913年にフランスのアミアンで開催されたサイクルカーグランプリの様子。前を走るのはイギリスの3輪自動車モーガンのようである。当時はこんなレースが各地で行われていた。
【Agence Rol, Public domain, via Wikimedia Commons】
しかし、彼らの作る車は収益性が低く、1926年頃には事業の継続が難しくなってきていた。そこでブッチャリは、会社の目指す方向を変更する。革新的な技術、デザインを売りにした注文生産の高級車の製造、販売を始めるのである。富裕層や上流階級をターゲットに、ブッチャリ独自の車を売り込もうというわけだ。それがブッチャリTAVシリーズである。
革新的な車だったTAVシリーズ。
まず1926年にブッチャリは最初のTAVを開発。そして1928年10月、パリモーターショーでTAVを発表する。さらに1929年、30年、31年と改良を重ねた車をモーターショーで発表し続けるのである。ブッチャリTAVの革新的なテクノロジーは人々を驚かせ、当時の自動車ファンの間では大評判となる。
では、ブッチャリTAVの革新的テクノロジーとは何か。「TAV」とはフランス語の“Traction Avant”の略で、前輪駆動のことだ。そう、ブッチャリ TAVは、「前輪駆動」という新たなシステムを搭載した車だったのである。
ボンネット内のエンジンで前の車輪を回す前輪駆動、つまりFF(Front engine Front drive)は今では当たり前のシステムである。しかし、当時はそうではなかった。技術がまだ確立していなかったのだ。

1930年のパリ・モーターショーに展示されたブッチャリTAV。展示用として作られたもので、V16エンジンを搭載するというフレコミだったようだ。
【світлина, Public domain, via Wikimedia Commons】

ボンネットを開けるとエンジンが目に入るが、そのエンジンの前にギアボックスがある。これが、ブッチャリTAV独自の前輪駆動システムである。
【Bill Abbott, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons】
前輪駆動と言えば、1934年にフランスのシトロエンが量産型の前輪駆動車トラクシオン アバンを発売し、ヒットさせているが、ブッチャリは、その6年も前に公道で走行できる前輪駆動車を登場させたのだ。その点で確かに革新的であった。
さらに、ブッチャリTAVのスタイルは、車高が低く、幅が広く、ホイールベースが長いという特異なもの。しかも、ボンネットの側面には大きな鳥のデザインが施されている。この鳥はコウノトリだそうで、ポール アルベール・ブッチャリが第一次大戦中に飛行機乗りで従軍しており、所属の飛行隊がコウノトリ隊だったところから来ているらしい。
車全体のスタイルやデザインアクセントのコウノトリなどを見ると、この車、当時流行していたアールデコ様式のデザインを取り入れているようである。ブッチャリTAVは、流行の最先端というイメージも持つ、特別な車だったのである。

長く、幅広く、低い。高級感があるが、それでいて余計な装飾は付いていない。ただ、ボンネット側面のコウノトリが、粋なデザインポイントになっている。
最後に登場したブッチャリTAV12。
さて、ブッチャリTAV12であるが、この車、TAVシリーズの最後を飾る車である。それどころかブッチャリというメーカーの最後の車でもあった。そして、ブッチャリが製造した前輪駆動車の中では、モーターショー用ではなく、実際に顧客に販売された唯一の車でもあった。
最後のTAVは、顧客の要望を受け、V型12気筒エンジンを積み、全長が6メートルを超える4ドアセダンという車となる。正確に何台生産されたかは定かではないが、この車はフランス語で黄金の矢を意味する「ラ・フレッシュ・ドール」とも呼ばれ、ファンの間では伝説的存在となる。
ブッチャリは、会社の存続をかけてTAVのような注文生産の高級車製造を始めたわけだが、時代が悪かったことは否めない。
開発を始めた1920年代後半は、社会全体もまだ好景気に支えられていた。ところが1929年10月のウォール街大暴落をきっかけに世の中は大恐慌の時代に突入する。もう、豪華で高性能な車が売れる時代ではなくなっていたのだ。そしてブッチャリもこの車を最後に自動車生産から撤退してしまうのである。

隣りに立っている人物と比べると、車の大きさがよくわかる。写真は宝飾ブランドのカルティエが主催するクラシックカーイベント「カルティエ・コンクールデレガンス」での一コマ。撮られたのは2022年だ。製造されて90年のブッチャリTAV12、やはりこの車は迫力がある。
【Calreyn88, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】
現代もその優雅な姿は色褪せていない。
ブッチャリTAV12というこの高級車、現代では各地で行われるクラシックカーイベントにたびたび登場し、人々にその優雅な姿を披露している。
そして、そんなイベントに登場するクラシックカーは大抵、裕福なコレクターや上流階級の人間が所有する車でもある。
製造されて90年以上が経つブッチャリTAV12だが、今でも富裕層や上流階級の人々に愛され、大切にされているのだ。それを考えると、この車を作ったブッチャリ兄弟にとっては、まさに面目躍如と言えるだろう。もちろん自分たちの車が90年後のイベントで展示され、大いに評価されていることは知る由もないが・・・。
ドイツの車紹介チャンネルAuto Bildの紹介動画である。前項の写真と同じ2022年のコンクールデレガンスで撮影されたもののようだ。解説者が興奮気味にこの車の特異さ、素晴らしさを語っている。なお、ここでは、この車はブッチャリTAV8-32 V12と紹介されている。